ひたすらダラダラと吐き出す
毎日更新してみると銘打っておきながらきっかり三日坊主で終わっていて、我ながら呆れる。
継続は力なり。つまり継続できなければ無力で無能。
一念発起するのにもかなりの労力が必要だけど、継続するのはもっと難しい。とにかく何かを続けたい。続けた先に今とは違う自分を見つけられる気がする。
ここ数ヶ月は自分の傲慢さにやっと気付くことができた。
なんとか治していかなければ。
しかしながら、20年以上この性格で生きてきてしまったばかりになかなか治らない。
失敗を繰り返しては自分に絶望している。
トライアンドエラーのその先に何があるというのか、私にはわからない。とにかく今の自分に嫌気がさしている。
だらしなく脂肪のついた身体は、己の甘さや傲慢さをそのまま具現化したもののように思う。
健康的で爽やかな身体を作りたいと、運動を始めたが、週一回、たった数時間の運動だけではそう簡単に変わらない。
そればかりか、飲み会の予定を詰め込みすぎて食べすぎ、飲みすぎ、金なしの三重苦だ。
社会人になってからまともに異性を好きになることができず、アプローチしてくれる物好きな男達と付き合っても長続きしない。
そんな自分にもまた嫌気がさして、色々な異性と積極的に遊ぶようにしたのがここ2ヶ月。いいなと思った人は音信不通になり、あまり良くないなと思った人からだけはしつこく連絡が入る。現実は厳しい。
今夜、また別の男性とはじめて食事に行くのだが、いいかも、と思ったとしてもうまくいかないのだろうなと思うと、ひたすらに身体が重い。
周りの友人たちはこの人だ、という人を見つけ、結婚しはじめている。みんな悩みは抱えながらも幸せそうだ。そりゃ、この人となら一生を共に過ごし、家庭を築いていきたい、と双方が思える相手と出会えたのだから、幸せだろう。
かといって、私が不幸かというとそうでもない。幸せだ。同世代の平均年収より少しばかり多い給料、残業せず帰れる環境、信頼を置いてくれる上司、後輩をいびらない優しい先輩たち、かわいい後輩。まだ築2年の新居に帰れば、元気な母と父、愛犬、妹がいる。寝る場所もあれば、美味しいご飯やお酒も不自由なく提供される。週に一、二度は友人とご飯や飲みに出かけて、くだらない話で爆笑したり、人生を憂いたり。休日には愛犬と共に景色の良い公園や街に出かける。
これ以上の幸せはないのではないかと思うくらい、恵まれているのだ。
でも私は変わりたい。
もっと、もっと、幸せになりたい。
そして、自分の人生を誰かと比較したくない。
そう願いながらも、どこかで幸せな人を恨み、自分に劣等感を募らせていく自分が嫌いだ。
嫌いなところを愛せる余裕や優しさが、ほしい。
くだらないことで嘆いてないで幸せになれよと思う
自分の全てを肯定することはなかなか難しい。
もっと口が上手かったら、もっと足が速かったら、もっと胸が大きかったら…
そんなふうに自分に無い物を求めて嘆きがちだ。
欠点を含めて自分を肯定することができたなら、どんなにか楽だろうと思う。
もちろん、欠点を受け止めて改善を試みることは素晴らしいことだけど、改善しようがない欠点ばかりにとらわれて嘆くのはやめたほうがいい。
誰一人として得をしない。
喜ぶ人がいたとしたら、多分あんたのことが大嫌いな人たちだけだ。
と、頭ではわかっている。
その類の自己啓発本を何冊も読み、頭では理解しているのだ。しかしながら毎度本を読んでしばらくすると、またいつもの欠点探しに一喜一憂する自分に戻っている。
ので、このたび、自分の言葉でアウトプットしてみることにした。
素晴らしい自己啓発本の先生方のお言葉よりも自分の言葉で語りかけた方が、自分としては一番腑に落ちやすいだろうから。
お前はその程度の人間だ。
キレッキレの敏腕社長ほどのカリスマ性も、売れっ子モデルのような美貌も持っていない普通の人間。
だけど、それでいいじゃないか。
人生楽しんだもん勝ち。次の瞬間には死んでいるかもしれない、そんな限られた人生の中で 今この瞬間を楽しまなくてどうする。
くだらない嘆きは捨てて、深呼吸してみよう。
それから自分の好きなことや人を思い出してみよう。
たまにどうしようもなく自分が嫌になるときはお風呂にでも入って丁寧に体を洗ってみよう。お風呂から出たら、きっと嫌な気持ちも汚れと一緒に落ちて、体が軽くなっているだろうから。
人と目を合わせてみようと思う
人の目を合わせるのが苦手だ。
目を見て話すのはなんの苦もなくできるんだけど、すれ違いざまに他人と目を合わせることだけができない。
ちなみに、親しい人なら大丈夫。
すれ違いざまにふと目が合った時、にっこりと涼しげに微笑みかけることができたならどんなにか素敵だろうか。
笑いかけられた方だって悪い気はしないだろう。
むしろそのたったの一瞬で魅力的な人だと思うに違いない。
いいことづくめだ。
にもかかわらず実践できない理由は多分ただひとつ。
微笑んで目を合わせたとき、相手が微笑み返してくれなかった場合に拒絶されたような錯覚に陥るのが怖いのだ。
別にいいじゃないか。
相手が真顔だろうとなんだろうと、内心は素敵な人だと思って惚けているだけかもしれない。ポジティブシンキングこそが人生が上手くいく秘訣だ。
とか、思うのだが。
未だになかなか実践できないでいる。
でも、諦めたらそこで終わり。
もう少し自分を鼓舞して、明日はもっと綺麗な姿勢で歩いてみよう。
そしてすれ違いざまに目が会うことに成功したのなら、静かな微笑みをたたえてみよう。
明日こそ。
素敵な人になってやる。
それは私にとって、大きな一歩になるに違いない。
500冊同人誌をすべて処分した
ついに本棚とベッド下を占領していたホモ同人誌たちを処分した。
やったぞ。これでもう、親や友達が部屋に来てもヒヤヒヤするようなアイテムは何もないぞ。
心が軽い。ついでに少し身体も軽くなった気がする。
でも、まるで身の潔白が証明されたようなそんな晴れやかな気分になることが、なぜか少し悲しい。
思い起こせば、男性同士のラブにトキメキを感じたのは小学六年生のときだった。
当時仲良くしていた物静かな友人と、月に一度大きな書店に電車で通い、BL漫画や小説を立ち読みしていた日々をぼんやりと覚えている。(そんな友人は高校進学後キラキラの長い爪を装備してゲラゲラと大声で笑うギャルに進化して、今年スノボ友達と結婚したらしい。もう長らく会ってない)
きっかけは記憶にないほどいつの間にか男性同士のラブの世界にハマっていた。
どこか現実味のない美しさや官能的な世界にどっぷりと。
中学時代は黒歴史にもほどがあるので思い起こすのはやめておくとして、高校時代はオシャレに目覚め一度はBL界から足を洗ったはずだった。
結局のところ、受験勉強の合間に見始めた銀●がきっかけで、今度は商業BLではなく二次創作BLの世界に足を踏み入れてしまったから、2年足らずでこの世界に返り咲いてしまったわけだけれど。
大学生になるともう、とんとん拍子に立派な腐女子になっていった。
パケ放題がスタンダードになりつつあった時代。ガラケーで好きなカップリングのネット小説を読み始め、乙女ロードで同人誌を買い始め、ついには自分でサイトをつくり二次創作の小説をアップするまでになった。当時は手書きブログを使ってる人が多くて、わたしも絵や漫画を投稿してた。まだ探せば私の絵があるかもしれない。あとで見てみよう。
(自分の生み出した作品を見返すのが大好きなんだけど、たいていの人みんなそうだよね?)
大学時代はそれなりに恋人もいてオシャレも好きだったし、オタクアピールはしながらも腐女子であることは誰にも言えずにいた。知られたらドン引かれるんだろうなと思うといたたまれなかった。本当の自分を受け入れてもらえる場所がないのは、今思うとわりと窮屈だったと思う。
だけど、オンライン上では同じカップリングが好きな書き手さんや絵描きさん、私の作品に感想を送ってくれる人たちとつながれていたから、とても充実していた。
リアルの自分と腐った自分、二人の自分がいる感じだった。
そんな感じで自分を偽って過ごしていたからか、大学や大学時代の友人に思い入れが特になく、もっと勉強すればよかったとか、青春を謳歌すればよかったとか、後悔ばかり残っている。
そして大学の終わり頃になると時間を持て余してついにコスプレにまで手を出した。
オンラインだけでなくリアルでも腐った話ができる友人が爆発的に増えて、毎日が死ぬほど充実してた。
お金もかかるけど、とにかく楽しかった。現実なんてクソ食らえ、永遠に二次元とホモに溺れながら、愉快なオタク友達と宴会のような毎日を生きてやると思っていた。
のに。
社会人生活が始まり自由な時間が格段に減ってからは、だんだんと熱が冷めていった。
コスプレもしなくなり、当然コスプレでつながった愉快なヲタ友たちとは疎遠になっていった。
コミケに行くのもめんどうになり、好きだったカップリングの妄想も捗らずピクシブの更新もしなくなった。
そしてここ半年はもうグッズや同人誌にお金を出す気持ちさえ起きなくなり、そして今週ついに同人誌をすべて処分した。ホモとファンタジーと夢とエロが詰め込まれた500冊の同人誌たち。
さよなら。
そして、ありがとう。
また数年後にこの世界に返り咲かないことを祈りつつ。 備忘録まで。